3389015 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

人生朝露

人生朝露

アバター(AVATAR)と荘子と鈴木大拙。

ぜんぜん暇がないですが、

悪かったわね!
荘子です。

映画「アバター(AVATAR)」と、荘子(Zhuangzi)の続きを。

アバター。

参照:映画「アバター(Avatar)」オフィシャルサイト
http://movies.foxjapan.com/avatar/

当ブログ 荘子と進化論 その35。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201001120000/

当ブログ 荘子と進化論 その36。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201001170000/

当ブログ 荘子と進化論 その37。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201001250000/

『アバター』という作品の根底にあるテーマは、
osamu teduka
手塚治虫の『火の鳥』との共通のものです。

ヤマト編→熊襲と大和との争い
鳳凰編→人間の苦悩
未来編→文明のあり方
復活編→夢と機械

逆に言うと、生命の考え方にしろ、自然との対し方にしろ、「アバター」の着想は日本人として目新しいものではないわけでして。『火の鳥』のベースに荘子がいることも書きました。元ネタが同じだから、似たような話になる・・いや、手塚治虫の方が遥かに深い思索をしていますがね。

今回は、荘子の後継である禅といえば・・の、
D.T.Suzuki
鈴木大拙さんで。

参照:Wikipedia 鈴木大拙
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%A4%A7%E6%8B%99

Wikipedia D. T. Suzuki
http://en.wikipedia.org/wiki/D._T._Suzuki

まぁ、海外に評価される日本人の中でもこの人は文句なしでしょう。禅仏教を世界に知らしめたこの人の影響は今でも絶大です。本来禅というのは中国流に“Chan”と発音すべきものなのに、今でも西洋人が日本流に“Zen”と発音するのも、鈴木大拙さんのおかげですわ。「ドラゴン・キングダム」でジャッキー・チェンすらも「Zen」って言っていたのには笑いました。

Zen Golf
最近で言うと、アメリカでのベストセラーに『Zen Golf』とかもありますし、

ジョブズ。
アップルのCEO、スティーブ・ジョブズの発言にも表れる「禅」の精神。アメリカ人の中でも、まともな連中には親しまれています。この種を撒いたのはやっぱり鈴木大拙さんかなぁと。

参照:スティーブ・ジョブズと禅と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5010

禅宗や浄土宗は仏教が中国化する過程で、老荘の思想を多分に吸収しております。特に、鈴木大拙さんは、本当に荘子の後継者だなと思えますよ。

・・・というわけで、今回は『アバター』がらみで使ったネタをもとに、
禅の世界 鈴木大拙。
鈴木大拙さんの「禅の世界」から引用します。昭和16(1941)年7月20日から21日までに、鎌倉の円覚寺で行われた鈴木大拙さんの講演の内容です。この講演は荘子からの着想が非常に多いところとしても興味深いです。盲人の話、夢の話、そしてエスキモーの話に至ります。エスキモーの生活から無心の境地を見出すところもさすがですが・・。


-------(引用始め)-----------------------------------------

今日文明開化の人々がなくてはならぬというようなものは、原始生活をしている者にはなにもいらない。赤裸々な生活には何もいらない。坊さんは「一衣一鉢(いちえいちばつ)」ということを申しますが、樹下石上の生活をやってゆくには一衣一鉢でいいことになる。宗教生活にも原始生活の面影を宿したところがある。原始生活に教えられることは、必要以外の物は絶対に何もいらないということ、そうしてお互いに協同融通して私を忘れるというようなところである。文明人が原始人に学ばなければならぬように思われるのは、その生活の上に、実にやたらむだなものを積み重ねて、その下で喘ぎ喘ぎ生きてゆかぬようにすることである。今いっぺん今日の生活を原始に還元してみるということである。そいうことができると、今日こうしているということの本当の意味がわかると思う。すなわち、エスキモーの人の所などへ行って見ると、何が本当の生活かということがわかるのであります。原始人の野蛮性、残忍性は別として、赤裸々の生活にはどんな意味があるかということが、わかるだろうと思う。

(中略)日本の画家が米国のある大学へ頼まれて行って、いろいろ動物の写生をして、そうして標本の絵解(えとき)をやったということであるが、その人を頼んだ大学の先生の話に、日本の人が花鳥や動物の絵をかくときは、西洋の人がかくのと違って、鳥なり木なりが生きているといったということを聞いたことがあります。こんなちょっとしたような話でも、東洋のわれわれはむしろ自然そのものの中に生きている、それて一緒に生きてゆくというようなことがいわれうるのである。

いわゆる文化というのもが進むと、自然というものからだんだん遠ざかってゆく。そうすると嘘というものがそこへやたらとはいってくる。そうすると、ありのままにものを見ないで、それをまげて見るということになる。これが今日、このエスキモーの生活を書いた人の本がしきりに読まれるということになる一つの有力な原因だと、私は思う。人間は今日われわれが送っているような生活を離れて、どうかしていっぺんは元の原始性に帰りたいという心持を持っているものである。その原始へ帰りたいというのは、先にお話したような、お互いに生物を殺し合うという残忍な生活を、もういっぺん、ここへ活動写真などのように、自分の生活そのものの上に映し出すという意味ではない。こんな物質的、生物学的生活にいっぺん帰ってみて、味わってみて、それを今日の生活と比較してみるのではない。原始生活の純粋性、素朴性、真実性を再経験することによって、今日人間がいずれも悩んでいる虚偽からのがれようというのである。今日の虚偽性は、こうでもせぬと、その身に実感せぬのである。

(中略)われわれは時々大雨でも降って、天地がひっくり返れば面白いなどという気がすることがある。世間では昨今のような具合になってくると、どこかへ爆弾でも落ちたら、どんなかしらんなどと思うことさえある。経験してみないと分からないけれども、そういうような病的ともいうべき、心理的変態が感じられることがあるのです。これにはやはり元の一元性に帰りたいという意味が含まれていると見てよいと思う。一切の世界のものを破壊してみたいというような気持ちは、変態心理ではあるが、そこにはなにやら自由になりたい、解脱したいというようなものが、ひそんでいるように思われる。

今日のように機械文明が進んでくると、人間は機械に縛られてしまって、手も足も動かぬということになる、人間自身が機械の一部になってしまう。人間は労力を省き、時間を節約するため、いろいろな機械をこしらえたのであるが、機械は人間の思うようには動かなくなってしまった。大量生産とはなるほど便利で結構なことだが、これがために金持ちと貧乏人とは実際の生活において大いなる懸隔を生ずるようになった。機械ができるといらないものがたくさんできる。それを何とか売りさばかねばならぬ。それを捨てておくわけにはいかない。捨てておくと資本が損になる。どうかして売らねばならぬ。売る先を広げにゃならぬ。いやだ、というところへ「きさま買え、買わなければ殺す」----とまでは言わないにしても、だいぶ無理をして売りつけようとする。今日の戦争はみなそこから出る。何とか言っているが結局はそうです。

(中略)いわゆる原始生活なるものは、今日のわれわれから見ると、いかにもきたない生活でもあるし、いやらしいと思われる生活であるけども、赤裸々で、天真爛漫で、子供が着物を脱いで、真っ裸で、そこらあたりを転げまわるというような心持が、原始生活の中に味わえるのである。きたない生活に気を腐らせるよりも、天真獨露のところに心をひかれる方が強いのである。それはいっぺん味わってみると、幾枚もの着物を着て、押し付けられた生活をしたり、あっちで叩かれ、こっちで叩かれて、無碍の生活のできないのが、いかにも情けない気がする。

(中略)一方では君の世界は嘘の世界であるといえるが、そういっている人の方がまた一方から見ると嘘の世界であるかもしれない。荘子の夢が胡蝶となってフワリフワリと花の上を飛んで歩いて暮らしておった。自分が蝶であるか、蝶が自分であるか、どうか、分からぬのである。また「夢」の荘子がほんとうの荘子か、「現(うつつ)」の荘子がうその存在か、どっちがより多くの現実性を持っているのか。夢に夢見るということもあって、ある角度からすると、この問題は必ずしも閑問題ではないのである。面白いところもないとは言えない。今日われわれが、こうしているとこう思っているけれども、それほど非現実性を持ったものではないかも知れぬ。ほんとうに現実性を持ったものは、そう思っているものを、もう一つ突き抜けたところにあるのではなかろうか。自分にはそう思われてならないのである。これは改めて申し上げたいと思います。

そういうわけで、何が現実であり、何が非現実であるかということは、これはお互いに議論をしてわかるものではない。この今われわれに面していると考えられる世界は、もともと一元であるが、それが意識の発生で、二元の世界にわかれて、それから次へ次へと千差万別の世界になったから、お互いに私のほうが現実だ、お前のほうが非現実だといって暮らすようになって、自分の生きている世界だけが一真実の世界のように思われるようになった。そういう私の方が非現実だ、非現実だと言われるお方があるかもしれない。それにはまたやむをえぬところがあると思う。

--------------------------------------------------(引用終わり)--------------

↓↓ で、もう一度、見てください。 ↓↓
映画「アバター(Avatar)」予告編
http://www.youtube.com/watch?v=8-XXDzOJ1m8&feature=related
ね、禅であり、荘子でしょ?

今日はこの辺で。


© Rakuten Group, Inc.
X